この人は、日本式の治療術をアメリカに
1960年代に紹介をし、アメリカの
オステオパシー界と交流を持った人でした。
その後、故古賀先生がカークスビルの
オステオパシー大学と交流されていたようです。
今回、この中山先生の貴重なる資料が
いくつか私の手元に集まりました。
今回アメリカに、私の作ったオステオパシー
技術を伝えに行く前にあたり、先人のこのような
資料が私のものに集まるというのも、きっと
何かの意味があるのだと思います。
今までいろいろな意味で、いろんな目にあってきました。
大変嫌な思いもたくさんしてきましたが、
今後情勢が変わってくれば、すべては
報われるのだと思います。
その時が来るよう、ただ頑張るのみです。
大変嫌な思いを、私は決して忘れません。
それこそは私の今の原動力でもあるからです。
私には多くの理由、原動力がなければ
単身アメリカに乗り込むなんて、きっと
考えなかったろうと思います。