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光、聴視覚力のみにて得られるもの

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「清澄な存在である天使に対して、
神の力は至純のまま注がれる。
しかし、神の誉むべき恵みにより、
人間にはいわば幾重もの覆いを
通して光が注がれることになる。

光の眩しいばかりの輝きの為、
人間の精神の貧弱な眼が眩み、
損なわれることの無いようにと
神が取りはかられるからだ。

それに、人間に相応しい象徴を通じて、
その表す真理に支障なく到達せんが為に、
神が配慮されたからでもある。」

「天使は、神的叡智でもある神的光を
直接神から吸収するが、人間は太陽という
媒介的な象徴を通じて神的光を摂取する。」

(以上 ジョン・ディー、エリザベス朝の魔術師より)

肥田先生の生まれた時代は栄養面、
その他種々の状況が悪く、
多くの子供がいても長く生きられなかった。

肥田先生の兄弟の多くが長生きできず、
兄と2人になってしまっている。

肥田先生自身病弱で、いつまで生きられるかと言う
子供であり、学校もちゃんと通えなかった。

ある時、このまま何もせずして死ぬのなら、
何でも健康法をやってみて、それで死んでも
構わないと言う気持ちで行った。

その内身体は強くなり、健康体となった。

多くの健康法を行っている内に、
自分独自の健康体操をあみ出した。

それが、肥田式強健術の始まりである。

その肥田先生は、
「人は健康なだけでは、つまらん。
そして健康を求める為に種々の
薬物だの、いわゆる滋養物だの、
或いは様々な器具体操だの、
もしくは、霊法妙術などと言う
怪しげなものに惑うは愚かである。」

「自己中心の根本をおさめれば、
自ら自然と合一し、自ら天地の道と
連なり、健康の如きは、求めずとも、
期せずとも、自らそこに至る。」

「而も、かくの如くにして得た健康こそは、
最も堅実であり、最も確的であり、
最も簡易であり、最も能率的であり、
而して最も完全である。

そして、単に身体を健康にするばかりでなく、
精神を清明強固にして、更に進んで真理の
本体たる道の生命に悟入させる。」

「強い中心鍛治の体操を行う事により、
我が心は我が衷に収まって来る。

そして、体力と心力とがピシッと、我が
正中心(丹田)で一緒になた其の瞬間、
或る種の活きた力は、我が中心から、
電光の如くにほとばしり出て、ガッチリと
現実の一切に合致する。

太陽、空、雲、山、海、森の一切と、
そうして其の中に澎湃(ほうはい)たる、
宇宙生命の衷に連なって行く。」

すると、

「荘厳、崇高、清浄、神秘の極致である。
見渡す限り爛漫として、咲き乱れたる花の
トンネル花吹雪である。

右も左も上も下も、金銀珠玉でちりばめられている。

何処までが現実か?
何処までが幻想か?

余りにも美しく、余りにも偉大である。
これこそは、最も充実した空虚の道だ。

鮮やかに醒めた、陶酔の世界だ。
興奮と沈静との絶頂である。

時空と絶した永遠の神仙境である。

眼前にある山も、森も、草も、石も、
水も、土も、忽としてことごこく、
五色の彩光を帯びてくる。

人家も、船も、鳥も、蝶も、
喜びと生命とを織り込んだ
光のもやに包まれている。

而も一層ハッキリと活々している。
ハッキリと鮮やかに映っていながら一切は空だ。
一切は空だが、光と喜びと生命とは、
みなぎりあふれている。」

(以上 聖中心道より)

これらの言葉は、肥田先生が中心力を
定めたり、鍛えると自然に眼前の目に映る
世界が変わり、光の黄金とダイヤモンドの
輝きに彩られた世界に変わってしまうようである。

ヨガの教典においても又、
臨死体験においても、この世界は
光で出来ているとか、死後に
まばゆいが目を痛めるようでなく、

慈愛に満ちた心が落ち着くような
光の存在に出会うという事が出てくる。

私が以前も書いた、治癒エネルギーが
光のほとばしりとして見た事を考えると、

どうも、全て万物において大事な
ポイントは「光」という事に尽きるようである。